登山は心身を満たす最高の体験ですが、自然相手のアクティビティである以上、転倒・捻挫・切創・低体温・熱中症・道迷い・落雷・動物遭遇・装備故障・通信断などのリスクは常に隣り合わせ。大切なのは「ゼロリスク」を目指すことではなく、起きやすい事態を想定し、予防し、起きたら素早く正しく対処することです。
本ガイドは、現場ですぐ使える手順・チェックリスト・早見表・テンプレ文を詰め込んだ実践版。初心者からベテランまで、スマホに保存しておけばそのまま“お守り”になる内容です。印刷してジップ袋に入れて携行するのもおすすめ。
1. 応急処置と現場判断の“黄金ルール”
1-1. Scene Safety と STOP 原則
- 安全最優先(Scene Safety):落石・雷・崩落・増水・強風・通行の妨げを確認し、二次被害を断つ位置へ移動。救助者自身の安全が最優先。
- STOP原則:Stop(止まる)→ Think(考える)→ Observe(観察)→ Plan(計画)。焦りは判断ミスの最大要因。まず深呼吸。
- 作業前の声かけ:役割を短く分担(「私:通報」「Aさん:保温」「Bさん:周囲安全確保」)。
1-2. ABCDE一次評価(簡易)
- A 気道:開通確認/嘔吐物・泥の除去。呼びかけて咳・発声の有無を確認。
- B 呼吸:回数・深さ・努力呼吸。胸の上下・ぜいぜい音・胸痛の訴え。
- C 循環:出血・脈拍・皮膚色・冷感。出血は直圧止血を最優先。
- D 意識:呼びかけへの反応・混乱・けいれん・片麻痺の有無。
- E 体温/全身:濡れ・風・低体温のリスク。断熱と保温を即実施。靴内の濡れも確認。
優先順位の原則:止血>保温>搬送計画。写真撮影や荷物整理は後回し。
1-3. 撤退基準の“先取り”
以下のいずれかで短縮・撤退へ即切替。
- 痛み増悪/支持なしで3歩不可
- 視界不良(<50m)や雷・強風の接近
- 予定遅延**>60分**/日没接近/ヘッドライト未整備
- 体温管理の破綻(汗冷え・震え停止・言動鈍化)
迷ったら安全側。“行ける”ではなく“安全に帰れる”かで判断。
1-4. 心理の暴走を止める“30秒ルール”
- 3回深呼吸→状況を声に出して要約→次の一手を1つだけ決める。パニックと暴走登山を予防。
2. 外傷・不調への対処(捻挫・切創・骨折・靴擦れ・眼鼻口)
2-1. 捻挫/打撲:RICE → 固定 → 撤退判断
- 安静:座る・荷を下ろす。体勢を低くして転倒再発を防止。
- 冷却:保冷剤/沢水で15–20分(凍傷に注意)。濡れは後で必ず乾かす。
- 圧迫:伸縮包帯で8の字固定。痛み・しびれ・爪色で締め過ぎ確認。
- 挙上:心臓より高く。休憩中は岩やザックを利用。
- 固定:ポールや枝+包帯で簡易スプリント。靴は基本脱がさず固定(腫脹で再装着困難になる)。
- 撤退:歩行痛が増す/支持なしで3歩不可/腫脹急増は下山・受診。
ねんざ固定ミニ手順
- 足首を自然位(直角)で保持 → 2) かかとを包むように8の字 → 3) ふくらはぎまで螺旋巻き → 4) 末梢の色と感覚を再確認。
2-2. 切創・裂創:直圧止血 → 洗浄 → 被覆
- 止血:清潔ガーゼで数分間しっかり圧迫。動脈性(噴出)なら圧迫継続。関節付近は固定も並行。
- 洗浄:飲料水で砂・泥を除去。深部異物は抜かない(出血増悪リスク)。
- 被覆:滅菌ガーゼ+テープ。関節は**痛くない角度(屈曲位)**で固定。
- 救助:止まらない出血/深部露出/広範囲の咬傷は即要請。
傷の清潔操作のコツ
- 手指をアルコールシートで拭く→洗浄は弱い流水で長めに→ヨード系は広範囲連用しない→砂利が残るなら無理をせず被覆&受診。
2-3. 骨折・脱臼・打撲:見極めと処置
- 骨折疑い(変形・異常可動・激痛・軋轢音)
- 徒手整復はしない。患部の上下関節を含めて固定。
- 体温保持を最優先。歩行困難は動かさないが原則。搬送は最短・安全な動線で。
- 肩の脱臼疑い:自己整復はトラブルが多い。三角巾+胸に固定し保温・撤退。
2-4. 靴擦れ/マメ:最速対処
- 違和感の瞬間に停止→ホットスポットへテープ(テンションをかけずに貼る)。
- マメ形成後はドーナツパッドで圧分散。穿刺は清潔環境で一点→排液→被覆。感染兆候(発赤・熱感・膿)は受診。
2-5. 眼・鼻・口のトラブル
- 目に砂/虫:強くこすらず、清潔な水で洗眼。違和感残存・視力低下は受診。
- 鼻血:座位・前屈み・小鼻を10分連続圧迫。仰向け禁止。再出血時は追加10分。
- 歯の痛み:冷えと糖分過多で増悪。鎮痛薬(常備薬の範囲)と保温、硬い食事は回避。
外傷の“初動”早見表
事象 | 兆候 | 初動 | NG行動 |
---|---|---|---|
捻挫 | 急な痛み・腫れ | RICE→8の字固定→挙上 | 我慢の続行・急斜面歩行 |
切創 | 出血・泥汚れ | 直圧止血→流水洗浄→被覆 | 何度もガーゼを剥がす |
骨折疑い | 変形・激痛 | 上下関節含め固定→保温 | 無理な矯正・乱暴な搬送 |
マメ | ひりつき | 早期テーピング→圧分散 | 放置して歩き続ける |
目の異物 | 痛み・流涙 | 洗眼→擦らない | こする・硬物で触る |
3. 高山病・熱関連障害・低体温・胃腸障害・アレルギー
3-1. 高山病(AMS):予防と初動
- 症状:頭痛・吐き気・めまい・倦怠・食欲低下・睡眠障害。
- 初動:上昇停止→休息→保温→水+電解質。改善しなければ高度を下げる。
- 予防:ゆっくり登る/十分な睡眠/前夜の飲酒回避/重装は低速で/2,500m超は特に慎重に。
3-2. 熱中症・脱水・低ナトリウム血症の見分け
症状/所見 | 熱中症寄り | 脱水寄り | 低Na血症寄り |
---|---|---|---|
体温 | 高い/皮膚熱い | やや高い | 正常〜やや低いことも |
汗 | 出ない/粘る | 多い | 多い〜普通 |
尿 | 少/濃 | 少/濃 | 普通〜多/薄い |
主訴 | 頭痛/吐き気/ふらつき | 喉渇き/足攣り/倦怠 | 頭痛/むくみ/混乱 |
初動 | 冷却最優先 | 水+電解質を少量頻回 | 飲水抑制+電解質 |
撤退・要請ライン:意識障害/嘔吐持続/歩行困難。
3-3. 低体温:サインと保温手順
- 兆候:震え→動作鈍い→意識低下。濡れ・風・疲労で悪化。
- 手順:濡衣を脱がす→乾いた保温着+レイン→地面断熱→温糖飲料→動かさず保温(強い摩擦で温めない)。
- ポイント:首・腋・鼠径の3点保温。濡れ手袋は即交換。
3-4. 胃腸トラブル
- 原因:冷え・不衛生な水・食当たり・疲労。
- 対処:保温・経口補水・脂もの中止。発熱・血便・意識低下は受診。藪の湧水は浄水タブレット等で処理。
3-5. アレルギー/虫刺され(ハチ・アブ・ブヨ・ヒル・マダニ)
- ハチ刺傷:
- 局所:冷却・抗ヒスタミン外用(常備薬範囲)。
- 全身(息苦しさ・蕁麻疹・顔面腫脹):アナフィラキシー疑い。横になって足を上げる→救助要請。自己注射薬を処方されている人は指示に従う。
- ヒル:無理に引っ張らず、塩やアルコールで離脱→圧迫止血→清潔に被覆。
- マダニ:無理に抜かない。そのまま被覆し受診(口器残存の危険)。
4. 道迷い・気象急変・動物遭遇・ビバーク・夜間行動
4-1. STOP+位置の“言語化”
- Stop(動かない)→Think/Observe(踏み跡・テープ・尾根/沢)→Plan。
- 地図アプリ+紙地図+コンパスで、
- 例:「○○尾根××分岐から東へ30分、標高1,650m、北面のトラバース道」 と口で説明できるまで特定。
- 戻る勇気:確信が持てない分岐は来た道を戻すのが原則。
4-2. 濃霧・雷・強風への即応
- 濃霧:速度を落とし要所で停止→方位と距離を声に出して確認。確信なき前進は×。
- 雷:黒雲・遠雷・冷たい突風・雹は前兆。稜線・独立峰・高木下を避け、低い鞍部へ。金属はまとめて地面に置き、足を閉じてしゃがむ。
- 強風(8–12m/s):体感急低下・転倒リスク。風下側で衣服調整→コース短縮/撤退。
4-3. 動物遭遇とビバーク
- 動物(クマ・イノシシ・サル・シカ):近づかない/走らない/餌を見せない。会話・鈴・ラジオで存在を知らせる。子連れ・給餌場は最危険。
- ビバーク:落石・増水・倒木の恐れが少ない広めの場所。ツェルト/シート+マットで断熱。濡れ物は脱いで保温着+レイン、飲水・糖分を少量ずつ。
4-4. 夜間行動の原則
- ヘッドライト2台(本体+予備)と予備電池。赤色モードはまぶしさ軽減。
- 夜間は行動範囲を「主歩道・尾根筋」に限定。沢・ガレ・梯子帯は原則回避。
気象・道迷い“行動フレーム”早見表
兆候 | 現場で起きていること | 取るべき行動 |
---|---|---|
雲底急降下/冷風 | 積乱雲の前兆 | 稜線回避→樹林帯へ。体温維持優先 |
視界<50m | 放射冷却+湿潤 | 速度低下→要所停止→地図確認 |
霧雨→本降り | 前線通過 | レイン上下即着→行動短縮 |
稜線強風 | 体感急低下 | 風下でレイヤ追加→短縮・撤退 |
5. 装備・ファーストエイド・連絡テンプレ(総まとめ)
5-1. 軽量で“効く”救急セット(最低限/推奨)
カテゴリ | 最低限 | あると強い |
---|---|---|
止血・創傷 | 滅菌ガーゼ/テープ/絆創膏 | 止血パッド・はさみ・ピンセット・滅菌水パック・滅菌綿棒 |
捻挫・固定 | 伸縮包帯/テーピング | 軽量スプリント・弾性ネット・サポーター |
体温管理 | エマージェンシーシート | 超軽量ツェルト・薄インサレーション・断熱マット切片 |
照明・通信 | ヘッデン+予備電池 | 予備ライト・ホイッスル・モバイルバッテリー・予備ケーブル |
水・栄養 | 電解質タブ・ジェル | 折畳ボトル・浄水タブレット・飴/梅干し |
重量対効果トップ:エマージェンシーシート/伸縮包帯/止血パッド/ホイッスル。ザック最上段へ。
5-2. ギア故障の応急ワザ
- 雨具破れ/ジッパー不良:補修テープを裏から貼る。強雨時はポンチョ重ね。
- ザック破損:タイラップ・ロープ・カラビナで応急連結→荷重はヒップベルト中心へ。
- ストック不良:短く固定して片ストック運用。歩幅を小さく。
- スマホ不調:機内モード+GPS ON/オフライン地図二重化/寒冷時は内ポケット保温。過熱時は直射を避け冷却。
5-3. 緊急連絡テンプレ&役割分担(日本国内)
連絡先の基本:警察は110、消防・救急は119。山岳遭難は多くの地域で**警察(110)**が起点。管理事務所・山小屋・県警山岳救助隊の連絡先は計画段階で控えておく。
SMS/通話で伝える要点
- 場所(山域・コース・標高・地形〈尾根/沢/コル/分岐〉・近くの目印)
- 症状(意識・呼吸・出血・歩行可否)
- 人数(要救助者・同行者)
- 対処(実施済みの応急:止血・固定・保温・補給)
- 目印(派手色レイン・ライト点滅・ホイッスル)
例文(コピペ可)
「○○山△△コース、標高約1,720mの尾根上、××分岐から東へ20分。同行2名。1名が転倒し右足首強い痛み、歩行困難。止血不要、包帯固定・保温実施。赤いレインを掲示、ヘッドライト点滅中。現在安全な場所で待機、連絡はこの番号へ。」
SOS信号:短短短—長長長—短短短(ホイッスル/ライト)。3回セットは遭難信号の基本。
役割分担(複数人):指揮(状況把握・撤退判断)/応急手当(止血・固定・保温)/連絡(位置特定・通報・山小屋連絡)/環境整備(落石防止・風よけ設営・断熱)。無理な担ぎ下ろしは禁物。体温・水・糖分を切らさない。
5-4. 出発前“予防が最大の対策”チェックリスト(印刷推奨)
- 計画書・登山届を提出して共有した
- 天気・風・雷予報/コース状況を確認した
- 早出早着の行程で短縮案・撤退基準を決めた
- 紙地図+オフライン地図DL済み(予備端末や地図アプリの二重化)
- レイン上下・保温着・ヘッデン・予備電池
- ファーストエイド(止血・固定・保温)
- 水1.5〜2L+電解質/行動食(甘味・塩味バランス)
- 予備電源・ホイッスル・携帯トイレ・修理テープ
- 靴・靴下・ザックのフィット最終確認(かかと浮き・圧迫なし)
- 連絡手段(電波弱区間の想定・バッテリー残量目標)
5-5. Q&A と用語ミニ辞典(要点だけ)
Q. 水と電解質はどのくらい? → 気温や強度で変動。目安は水0.4〜0.8L/時、Na 300〜700mg/時。
Q. 紙地図は必要? → 必要。スマホは落下・破損・凍結・過熱のリスク。冗長化が安全。
Q. 雷時の姿勢は? → しゃがみ姿勢で両足を揃え、金属は地面へ。高木下は避ける。
Q. 衛生対策は? → アルコールシート・手拭き・小型ゴミ袋を常備。トイレ後や食事前に手指消毒。
用語
- RICE:Rest(安静)/Ice(冷却)/Compression(圧迫)/Elevation(挙上)。
- ABCDE:一次評価の順序。気道→呼吸→循環→意識→体温/全身。
- STOP:Stop/Think/Observe/Plan。焦りを断つ合言葉。
6. ケーススタディ(判断と初動を“体に入れる”)
6-1. 砂礫急斜面で足首を捻挫
- 状況:標高差900mの登り返し後、下り始めでグキッ。腫脹あり。
- 初動:安全地帯へ→RICE→8の字固定→行程短縮を宣言→サブリーダー先行で下山支援準備。
- 学び:急斜面の歩幅過大と踵着地が原因。次回は小刻み歩行とストック活用。
6-2. 夏の稜線で頭痛と吐き気(熱関連)
- 状況:風弱・高温・水だけ多量。会話がぎこちない。
- 初動:日陰へ→衣服緩め→頸/腋/鼠径冷却→電解質+水を少量頻回→30分で回復、コース短縮。
- 学び:水だけ多飲は低Na血症リスク。電解質は時給400mgを目安に。
6-3. ガスで視界10m、分岐を通過
- 状況:濃霧でテープ不明瞭。分岐を過ぎて不安に。
- 初動:STOP→要所まで戻る→地図と等高線で位置確定→尾根道優先で再構築。
- 学び:確信なき前進は事故の母。濃霧は“戻る勇気”が最短距離。
6-4. ハチに刺され手が腫脹
- 状況:林道終点付近。以前軽度のアレルギー歴。
- 初動:冷却・安静・患部高挙→呼吸と意識を10分ごと再評価。全身症状なし→下山後受診。
- 学び:刺傷後は時間経過で悪化するケースに備えて観察を続ける。
まとめ:備え・判断・行動が“安全に帰る力”になる
ケガやトラブルを完全にゼロにはできません。だからこそ、予防(計画・装備)→早期発見(兆候)→即応(初動)→撤退の流れを体に染み込ませましょう。
現場では、安全確保→STOP→ABCDE→保温・補給→連絡の順で落ち着いて対処。帰宅できてこそ登山は成功です。今日の山行から、チェックリストとテンプレ文をスマホに保存して出発してください——“安全に帰る”力は準備で育ちます。