見える・聞こえる・噛めるは、非常時の行動力と体力を左右する生命線だ。暗がりでの避難、名簿や掲示の読み取り、放送の聞き取り、固い配給食を咀嚼する——この基本機能が保たれるかどうかで安全・理解・栄養・回復が分かれる。
本稿は、眼鏡・補聴器・義歯(入れ歯)の持ち出しキットの中身、洗浄・乾燥・保管の手順、電池・破損の応急、在宅避難/避難所/移動時の運用まで、家族単位ですぐ導入できる実践マニュアルとして整理した。表・手順・チェックリストを豊富に収録し、最後にQ&Aと用語辞典、そして緊急連絡カードのテンプレも付す。
非常時キット設計の基本方針:優先度・数量・置き場所・情報カード
優先度を決める(視・聴・咀嚼の三本柱)
- 視覚:予備眼鏡+度数メモ+メガネ拭き。老眼のみでも作業効率が段違いに。避難所では掲示・配布物の読解が命綱になる。
- 聴覚:補聴器の電源(電池/充電)、乾燥剤、耳あか掃除具を最優先。放送・指示・名前呼び出しの取りこぼしを防ぐ。
- 咀嚼:義歯の保管水容器と洗浄剤、安定剤を基本に、修理不可時の代替食(やわらか食)を合わせて準備。
数量とローテーション(3日/7日/30日)
品目 | 1日あたり目安 | 3日分 | 7日分 | 30日分 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
メガネ拭き(個包装) | 2枚 | 6枚 | 14枚 | 60枚 | レンズコート対応を選ぶ |
補聴器電池(空気電池) | 1〜2個 | 3〜6個 | 7〜14個 | 30〜60個 | 両耳・出力で増減 |
乾燥剤(補聴器/義歯) | 1個 | 1〜2個 | 2〜3個 | 3〜5個 | 再生型は回数の記録を |
義歯洗浄剤(錠) | 1錠 | 3錠 | 7錠 | 30錠 | 水不足時は半錠も可 |
保湿ジェル(口腔) | 2〜3回 | 6〜9回 | 14〜21回 | 60〜90回 | 乾燥・口内炎の予防 |
ローテーションの要点:毎月1回の点検日を設定し、「消耗品→先入れ先出し」「電池→期限と残量確認」「乾燥剤→色変化の記録」をルーチン化する。
置き場所の三点分散と持ち出し動線
- 枕元(夜間地震対策/眼鏡ケースは落下防止ストラップ付き)
- 玄関(靴と同じ棚/家族分を色で分ける)
- 外出用バッグ(帰宅困難時)
動線の型:「声かけ→靴→眼鏡→補聴器→義歯容器→玄関集合」。家族で声出し練習をしておく。
情報カード(人別テンプレ:名刺サイズ)
- 氏名/生年・血液型(任意)/主治医・歯科名/家族連絡先
- 眼鏡:度数・左右・乱視/替えの保管場所
- 補聴器:機種・電池規格(PR41=312 等)・左右設定
- 義歯:種類(総義歯/部分)、金属床の有無、かかりつけ歯科
- アレルギー/使用中の薬
→ ラミネートして各ケースに封入。
眼鏡の非常時キット:洗浄・保管・応急修理・視力の代替
キット内容と用途
区分 | 品目 | 役割/運用のコツ |
---|---|---|
本体 | 予備眼鏡(同度数) | 自宅用と別の場所に保管。ナイロン系フレームは軽く折れにくい |
清掃 | 個包装メガネ拭き/マイクロファイバー | 水が少ない時でも曇り・皮脂を落とす。布は個人専用 |
防曇 | くもり止めシート(非研磨) | 雨天・マスク併用時に有効。鼻ワイヤー密着も併用 |
保護 | ハードケース+ソフト袋+乾燥剤 | 衝撃と擦れを防ぎ、粉じん・湿気から守る |
応急 | 精密ドライバー/ねじ/鼻パッド/極細針金/テープ | ねじ脱落・鼻当て破損・つる割れに現場対応 |
洗浄と保管(水が乏しい時の徹底手順)
- 水が使える:ぬるま湯でほこりを流す→中性洗剤1滴→指の腹でやさしく→すすぎ→柔らかい布で押し拭き。金属ヒンジ部は水滴を残さない。
- 水が乏しい:個包装シートで外側→内側→鼻パッド→つるの順に一方向で拭く。乾いたティッシュで強擦しない(細傷の原因)。
- 保管:ソフト袋→ハードケースの二重保護。ケースは落下しにくい位置へ固定。
応急修理の手順(現場で5分)
1)ねじ緩み:精密ドライバーでまっすぐ締める。ねじゆるみ止め液があれば極少量。
2)鼻パッド紛失:予備に交換。無い場合は医療用テープを小片に折り仮当て。
3)つる割れ:極細針金+テープで固定し、長時間装用は避ける。
4)レンズ外れ:リムに戻し、無理な力を加えない。固定できなければケース保管のみ。
予備が無い時の暫定視力対策
- 老眼用の既製品(+1.0〜+2.5):近見作業のみの代替に。
- 手元作業は明るさを増す:照度で見え方が改善する。
- 表示・掲示はスマホで拡大表示:読み取り補助に。
補聴器の非常時キット:電池・乾燥・掃除・節電・雨対策
キット内容と用途(詳細)
区分 | 品目 | 役割/運用のコツ |
---|---|---|
電源 | 予備電池/充電器/モバイル電源 | 型番(例:PR41=312)を紙に控える。充電式はUSB出力を確認 |
乾燥 | 乾燥ケース(シリカゲル/再生型) | 就寝時は必ず乾燥。再生型は指示通り再生 |
清掃 | ブラシ/耳せん(ドーム)/音道フィルター/綿棒 | 音が小さい=耳あか詰まりが多い。先端→外側へ払う |
保護 | 防塵ポーチ/落下防止クリップ/名札 | 左右表示を明確にし、取り違えを防ぐ |
電池規格と在庫管理(色コードで迷わない)
規格名 | 色コード | 代表機種 | 備考 |
---|---|---|---|
PR41(312) | 茶 | 耳かけ/耳あな | 一般的。開封で化学反応開始、早めに使う |
PR48(13) | 橙 | 高出力機 | 連続使用長め。サイズ大 |
PR70(10) | 黄 | 小型機 | 小型で消費早め |
PR44(675) | 青 | 高出力/骨導 | 大型、在庫は少量ずつ |
電池寿命を延ばすコツ(空気電池)
- シールをはがして1分待つ:空気を取り込み電圧が安定。
- 寒冷時は手で温める:低温で出力低下。
- 使わない時は電源OFF/電池扉OPEN:微消費を止める。
- Bluetoothや通話連携は必要時のみ:消費を抑える。
掃除と乾燥の手順(夜のルーチン)
1)耳せん外側→内側の順にブラシで払う。
2)音道フィルターの目詰まりを確認し、必要なら交換。
3)乾燥ケースに入れ、シリカゲル色を見て再生/交換。
4)朝は装着前に音量確認。違和感があれば耳せん再装着。
雨・汗・粉じん対策
- 帽子・フードで直接の雨を避ける。
- 汗が多い日は早めの乾燥。マスクのひもが補聴器に触れない装着順を。
義歯(入れ歯)の非常時キット:洗浄・保管・破損応急・代替食
キット内容と用途
区分 | 品目 | 役割/運用のコツ |
---|---|---|
保管 | ふた付き容器(漏れ防止)+水 | 乾燥で変形しやすい。必ず水中保管 |
洗浄 | 義歯洗浄剤(錠)/中性洗剤/やわらか歯ブラシ | 就寝中に浸漬。水不足時は半錠も可 |
口腔 | 舌ブラシ/保湿ジェル/うがい用品 | 唾液低下に備えて粘膜保湿 |
応急 | 義歯安定剤/綿棒/医療用テープ | 当たり痛みの緩和。接着剤固定は最小限 |
洗浄・保管の手順(毎晩の型)
1)流水で食べかすを落とす(なければ湿らせたガーゼ)。
2)中性洗剤+やわらかブラシで金具・床の裏側をやさしく。
3)洗浄剤液に就寝中浸漬。金属床は対応可否を事前確認。
4)朝は水でよくすすぐ。保管時は必ず水中へ。
破損・合わない時の応急
- 割れ/欠け:使用を中止し、テープで保護して持参。
- 痛み/ずれ:安定剤を薄く。厚塗りは噛み合わせ悪化。
- 装着できない:やわらか食(おかゆ・煮物・豆腐・卵料理・ヨーグルト)で栄養低下を防ぐ。
食べにくい時の代替メニュー例(配給にも対応)
分類 | 食材・メニュー | 調理・食べ方のコツ |
---|---|---|
主食 | おかゆ/雑炊/うどん | 水分を多めにして飲み込みやすく |
たんぱく | 豆腐/卵とじ/さば缶 | 小さくほぐす、汁は調味と水分補給に |
野菜 | にんじん・じゃがいも煮/野菜スープ | 柔らかく煮る、皮はむく |
乳製品 | ヨーグルト/チーズ | 酸味で唾液刺激、少量ずつ |
共通の保管・衛生・移動:粉じん/水不足/長距離に強くする
水が少ない時の清掃の工夫
- 個包装シート・湿らせたガーゼで汚れを一方向に拭き取る。
- 微量の中性洗剤はよく拭き取り、飲み込まない。
- 口腔は少量の水でぶくぶく→吐き出し、保湿ジェルで粘膜を守る。
粉じん・高湿・高温から守る
- ハードケース+乾燥剤で二重保護。
- 直射日光・車内放置を避ける(変形・電池劣化)。
- 名札・連絡先カードをケースに同封。
- 共用を避ける:他人の布・拭き取り具は使わない。
移動・避難所での置き場ルール
- 寝具の枕側にケースを固定(紛失防止)。
- 入浴・洗面時は専用ポーチで携行。
- 夜間点呼前に装着確認(聞き漏らし・転倒を防ぐ)。
持ち出しセットの作り方(人別で混在ゼロ)
人別ポーチ | 最低限 | 追加 | 備考 |
---|---|---|---|
眼鏡ポーチ | 予備眼鏡/拭き/ミニドライバー | 鼻パッド/予備ねじ/乾燥剤 | ケースに氏名・度数を記載 |
補聴器ポーチ | 予備電池/乾燥ケース/ブラシ | 予備耳せん/フィルター/モバ電 | 電池規格の色コードを紙で貼付 |
義歯ポーチ | 容器/洗浄剤/やわらか歯ブラシ | 安定剤/保湿ジェル/綿棒 | 容器は漏れない構造を選ぶ |
週間・月間メンテ計画(印刷して貼れる)
頻度 | 作業 | 目安時間 | チェック |
---|---|---|---|
毎晩 | 補聴器乾燥/義歯浸漬 | 3分 | 乾燥剤の色・洗浄液交換 |
週1 | 眼鏡フレームゆるみ確認 | 2分 | ドライバーで増し締め |
月1 | 消耗品の先入れ先出し | 10分 | 電池・洗浄剤・拭きの入替 |
季節前 | 熱・湿気対策の見直し | 10分 | 車内放置の回避、保管場所の再点検 |
Q&A(困りごとをその場で解決)
Q1:眼鏡のレンズが砂で傷つきそう。水がない。
A:こすらず風や振動で砂を落とし、個包装シートで一方向拭き。乾いたティッシュで強くこすらない。
Q2:補聴器の音が急に小さくなった。
A:耳あか詰まりが多い。耳せん→音道フィルターの順で掃除し、電池の向きも確認。改善なければ乾燥**。
Q3:義歯洗浄剤が切れた。
A:中性洗剤の極少量でブラシ清掃→水ですすぎ**。長期は避け、入手次第洗浄剤に戻す。
Q4:補聴器電池が足りない。
A:片耳運用で延命、会話が少ない時は電源OFF**。シールは使用直前にはがす。
Q5:義歯が合わず口内炎ができた。
A:使用を中止し、安定剤は薄く。やわらか食に切り替え、落ち着いたら歯科受診**を。
Q6:避難所で保管場所がなく紛失しそう。
**A:枕側に固定し、名札・色分けで識別。就寝前点検を家族で声かけ。
Q7:マスクと補聴器が干渉する。
**A:マスク→補聴器の順で装着し、耳ひもを外側に。フックや延長バンドで接触を避ける。
用語辞典(やさしい言い換え)
乾燥剤:湿気を吸ってカビ・劣化を防ぐ袋やカプセル。色が変わるタイプは再生の合図。
安定剤(義歯):入れ歯と歯ぐきのすき間を埋めて動きを抑えるペースト。
音道フィルター:補聴器の音の通り道にある汚れ防止部品。詰まると音が小さくなる。
中性洗剤:強すぎない洗剤。素材を傷めにくい。
空気電池:空気を取り入れて発電する補聴器用電池。シールをはがすまで反応しない。
金属床(義歯):金属製の土台。熱伝導が良いが、洗浄剤の可否は要確認。
まとめ:三つの感覚器具を「すぐ使える」状態で持ち出す
眼鏡=見える、補聴器=聞こえる、義歯=噛める。 この三つがそろうだけで、避難と生活の能率・安全・体力維持は大きく向上する。人別ポーチで混在防止、乾燥剤と清掃具で清潔維持、電池と洗浄剤を7日分以上——これが非常時キットの完成形。今すぐ枕元・玄関・外出バッグの三点分散を整え、家族全員で点検日を共有しよう。